記事紹介 記事紹介〈2022年4月7日(木)掲載〉 Introductory
記事紹介〈2022年4月7日(木)掲載〉
初開催となった、2022年に中部経済新聞にて掲載した記事をご紹介します。
国内外16ブランドが一堂に集結
中部地区初バイクの祭典
中部地区初となるバイクの祭典「第1回名古屋モーターサイクルショー」が4月8日からの3日間、常滑市の愛知県国際展示場(アイチ・スカイ・エキスポ)で開催。中部地区とバイクの関係は長く、深い。ショーの開催にともない国産バイクの歴史を紐解いてみた。
戦後日本の二輪文化が開花
バイク王国と呼ばれた名古屋
名古屋を発着とした戦後初の耐久レース
国産バイク発祥の地はどこか。有名なのは静岡県浜松市だ。世界を代表するバイクメーカー、ホンダ、スズキ、ヤマハのルーツもそこにある。しかし戦後ほどなくしてバイク王国として一時期、名を馳せたのは名古屋だ。
戦後から1950年代、全国各地でバイクメーカーが雨後の筍のように出現した。部品を協力企業から集めて組み立てる、いわゆるアッセンブリメーカーを含めると200社ほどあったといわれており、うち80社近くが名古屋圏にあった。活力みなぎる勢いに乗って1953年には戦後初の耐久レース、通称「名古屋TTレース」が開催されることになった。国産バイクの耐久性向上を目的に、公道の使用が許可された一方で、制限速度遵守の観点からレースという名を公然と使うのは認められず、正式名称は「全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード」となった。

名古屋TTレースのスタートシーン( 写真提供/名古屋オートバイ王国・郷土出版社)
全国から熱視線が注がれた名古屋TTレースは、名古屋を発着に愛知、岐阜、三重をめぐる約230㎞余りのコース。ほとんどが未舗装路だ。参加条件は排気量150㏄以下、部品含めて国産であること。19社57台がエントリーした。地元名古屋勢はBFモータース商会(中区)、伊藤機関工業(港区)、山下工作所(熱田区)、土井産業(中村区)、藤田産業(中区)、穂高工業所(南区)の6社。全選手が熱田神宮で安全を祈願した後、呼続大橋に移動してスタートが切られた。チーム優勝を果たしたのはホンダだった。
参加19社のうち現在もバイクメーカーとして残っているのはホンダのみだ。ヤマハ、スズキ、そして兵庫県明石市を本拠とするカワサキがバイクメーカーとして成長するのは、もうしばらく経ってからである。

名古屋TTレースの出発地点に向かう選手たち
(写真提供/名古屋オートバイ王国・郷土出版社)
空前絶後の超大型台風によって
バイクメーカーは壊滅状態に
名古屋圏は戦前から製造業の集積地であり、戦時中には航空機生産に必要不可欠なアルミや鉄などの金属産業が発達した。バイクに必要な部品が手に入りやすい地理的条件に加えて、自転車メーカーが多かったこともあり、バイクメーカーが乱立するようになった。多くが小規模のアッセンブリメーカーだったが、全国に名を轟かせる大手メーカーもあった。今なお「キャブトンマフラー」としてその名を残すみづほ自動車製作所(犬山市)、実用的なモデルを愛知トヨタなどで販売していたトヨモータース(刈谷市)、庶民の足として親しまれた「シルバーピジョン」で知られる新三菱重工業名古屋製作所(港区)などだ。
1950年からの朝鮮特需によって名古屋のバイク産業は活況を呈した。しかし、それも束の間。朝鮮特需が終焉し、政府の金融引締策が始まると小さなバイクメーカーは苦境に立たされることになる。そしてとどめを刺したのが、1959年9月26日に東海地方を襲った伊勢湾台風だ。空前絶後の超大型台風によって、中川運河や堀川が決壊。名古屋南部に集中していたバイクメーカーや関連部品の工場は水没した。すでに体力の弱っていたメーカーは、ヘドロと海水に汚れた工場機械設備や製品を再生させるだけの力はすでになく、倒産、廃業、転業に追い込まれていく。こうしてメイド・イン・ナゴヤのバイクは姿を消していくのであった。

みづほ自動車製作所のキャブトン500cc RK
(写真提供/名古屋オートバイ王国・郷土出版社)

新三菱重工業名古屋製作所の
シルバーピジョン最終型C240
(写真提供/名古屋オートバイ王国・郷土出版社)
庶民の足からスピードレースまで
世界に誇る日本のバイク
焼け野原の浜松から始まった
ジャパンブランドの快進撃
1946年9月1日、焼け野原の浜松市山下町にささやかな木造バラックが建てられた。入口には「本田技術研究所」の看板。世界一のバイクメーカー、ホンダの歴史はここから始まった。1947年に自転車用補助エンジンを完成させ、1949年には初の自社設計フレームに98㏄の2サイクルエンジンを搭載した「ドリームD型」の量産を開始した。1958年には、後に累計販売1億台を達成する世界最多量産バイク「スーパーカブ」シリーズの第1号モデル「C100」を発売。「世界のホンダ」へと羽ばたき始めていた。
その躍進に触発されたかのように浜松の織機機械メーカーと楽器メーカーがバイクの研究開発に着手する。鈴木式織機(後のスズキ)と日本楽器製造(後のヤマハ)だ。

1909年創業当時の鈴木式織機製作所の販売店舗(写真提供/スズキ)
繊維業界が不況にあえぐ中、スズキはバイクに活路を見出し、自転車用補助エンジンの開発に着手する。1953年発売の60㏄補助エンジン「ダイヤモンドフリー」は日本縦断テストなどで耐久性の高さなどが認められ、月産6000台のヒット商品になった。1954年にはスズキ初の完成車「コレダ号CO型」が登場。これを皮切りにバイクのラインナップを増やしていく。
ヤマハの第1号車は1955年の「YA-1」だ。黒一色の重厚なデザインが常識だった当時、マルーンとアイボリーに塗り分けられたスリムな車体はとても鮮烈で、シャープな加速性、軽快なハンドリングと相まって「赤とんぼ」の愛称で呼ばれた。やや高価であったことや後発メーカーで販売網の構築に苦しんだことから当初は販売が伸び悩んだものの、確かな性能が評判を呼び、やがて生産は軌道に乗り出す。
一方、関西に本拠を置くカワサキが本格的にバイク事業に参入するのは、名門の目黒製作所と業務提携した1960年になってから。後に目黒製作所を吸収し、大型製造に進出。「ビッグバイク」のカワサキの道を歩み始める。

1959年にホンダが初参戦したマン島TTレースのスタートシーン
(写真提供/本田技研工業)
チャレンジスピリットでレースを席巻
国内での地位を確固たるものとした各メーカーは世界へと飛躍する。きっかけとなったのは伝統のマン島TTレースだ。イギリスとアイルランドの間に浮かぶ島で行われる、その格式あるレースに、ホンダは1959年に初参戦。無謀とも思えたこの挑戦は1961年、125㏄、250㏄クラスともに1位から5位独占の完全優勝という形で実を結ぶ。スズキも1960年に初参戦。1962年に50㏄クラスで優勝する。ヤマハは1961年に125㏄、250㏄クラスに初参戦、1965年と1966年に125㏄クラスで連覇達成。日本製バイクの高性能ぶりを世界に見せつけた。
大型化、高速化へのニーズが高まる市販車においても日本勢の話題は事欠かない。ホンダは1969年、量産バイク世界初の200㎞/hオーバーを達成した「ドリームCB750FOUR」を発表し、世界を驚かせた。ヤマハは1970年に軽量・スリム・コンパクトな大排気量スポーツモデル「XS-1」を発表し、大型バイクの新たなトレンドを生み出した。1971年に登場したスズキ初の大型モデル「GT750」は、特撮ヒーロー番組にも起用され、ブラウン管を通して子どもたちの間でも人気を博した。
かつてバイク生産で先行する欧米メーカーを手本に研究・開発を進めてきたジャパンブランド。その飽くなき探究心と挑戦するスピリットが日本を世界有数のバイク王国へと押し上げていった。

スズキ初の大型モデルGT750
(写真提供/スズキ)

1969年に発表されたドリームCB750FOUR
(写真提供/本田技研工業)
主戦場が国内から海外にシフト
1980年代バイクブームそして現代
覇権をめぐる熾烈な販売合戦
1980年代、空前のバイクブームが巻き起こった。街は250㏄クラスを中心に多彩なバイクで溢れ返り、自動車教習所はバイクに乗りたい若者でひしめき合った。盟主に君臨するホンダと業界2位のヤマハがしのぎを削ったHY戦争は、50㏄スクーターを中心とした廉売合戦に発展。主婦にも、若者にもバイクは売れに売れて、1982年には320万台超を記録した。またレース熱も高まり、日本人ライダーの活躍もあって鈴鹿8耐には鈴鹿市の人口を上回る16万人ものファンでにぎわった。
しかし、そんな狂乱の時代はいつまでも続くものではなかった。HY戦争の終結、バイクブームを牽引したレーサーレプリカやスクーターの凋落により販売台数は減少していく。主戦場がインドやベトナム、タイなどの新興アジア諸国に移り行く一方で、日本のバイク不振は歯止めがかからず、1999年には100万台割れ。2009年には40万台を割り込み、ピーク時の8分の1まで落ち込んだ。


1981年のホンダ鈴鹿工場(写真提供/AP・アフロ)
ウィズコロナの時代見直されるバイクの魅力
長らく低迷してきた国内のバイク市場に復調の兆しが見えてきた。2021年1月〜12月の出荷台数は前年比15%増となる37万8720台となり、4年ぶりに増加に転じた。新型コロナウイルス禍の長期化により、〝密〞を回避できるレジャーや移動手段としての価値が見直されているためだ。若いころに乗っていた中高年の「リターンライダー」の増加もバイク人気を後押しする。
バイクメーカーは魅力的なモデルを続々と市場に投入している。技術進化による安全性、快適性の向上は、新たなファン層を掘り起こす可能性を広げるものだ。環境に優しい電動バイクについても、電池の交換を見据えた規格の統一、拠点の整備が示されたことで普及に弾みがつくと期待される。
新しい風が吹くバイク市場。今後の展開からも目が離せない。
参考文献/名古屋オートバイ王国・郷土出版社
企画制作/中部経済新聞社 企画開発局 広告部
※2022年4月7日(木) 中部経済新聞 朝刊より